心と身体がよろこぶ気功ライフ

「養生気功塾」のお知らせ、気功の魅力、気功養生法、気功の生活術をメインに、日々のいろいろブログ

天地を模範とすること

気功や養生(気養生)の

参考になればと思い

メモも兼ねてご紹介。

 

私たちが普段から大事にしていることも

これと同じなのです。

 

 

「Hans Publishers」さまより

 

陈撄宁和胡海牙师徒的养生实践活动是根植于道家的虚静无为思想,对《黄帝内经》“恬淡虚无,真气从之,精神内守,病安从来”养生理论的灵活应用,他们认为,如果养生“不合于先天无为之道”  ,即不是以清静无为宗旨的养生活动,都未必会有益于身体。所以,读书明理才是养生的第一要义,养生方法和技术的获取反而不是最主要的。如果不明白养生的道理,就有可能走入歧途或者受骗上当,或者不能选择合适的方法而反而有损于身体的健康。其次,读书明理与方法锻炼不可偏废,性命双修的养生大道,“若无真实传授之方法、事实之经验、精透之道理、博广之学问” ,则必然如盲人骑瞎马,夜半临深池。所以,书不可不读,但不可尽信,法不可不学,但不可盲从。一定要实事求是,推求其中的原委,鉴别真伪,找到适合自己的养生方法。第三,《黄帝内经》曰:“阴静阳躁,阳生阴长,阳杀阴藏”。阴阳乃动静之宗祖,动静结合,有动有静,方合乎性命之理,养生之道。人虽为万物之灵,但也是动物的一种。动物的天性就是“动”,“动”才是生命的本质特征。“流水不腐,户枢不蠹”,动才能彰显生命的活力。但是“动”不是妄动,而是要动的得法,常有小劳,无使过极。此外,还要以静制动,动中求静,其动如静,其静如动,妙悟天地阴阳造化之理,达乎先天虚静寂漠的无为境界,“静而与阴同德,动而与阳同波”。这样才能有良好的养生效果。第四,养生要性命双修,“性与命本无可分,就其‘灵机’而言,便谓之‘性’,就其‘生机’而言,则谓‘命’。一体二用” 。性功属于心理方面,命功属于生理方面,心理固能影响到生理,而生理亦能改变心理,所以性命二者,不能分轻重缓急,不能说孰先孰后。第五,养生要三宝同养,精气神三宝就是人体最好的药物。《黄帝内经》所谓“精神内守”和“呼吸精气,独立守神”,都是要求养生要精气神三者兼顾,养神贵在清静无为,养气总在于虚无恬淡,只要神气合一,气自生精,身体自然健康。听肤法即是对精气神的锻炼,身不动炼精化气,心不动炼气化神,意不动炼神还虚。太极拳和八段锦也是对精气神的锻炼。第六,行住坐卧,随时锻炼。现代社会生活节奏加快,职业分工复杂多样,人们的生活规律各不相同,如何能够既满足现实工作生活需要,又能达到养生目的。所以,养生应当时时用意,行住坐卧皆可养生,关键在于内心的恬淡与清静虚无。第七,法无定法,妙在心悟。养生之道贵在相宜,应当因时、因地、因人、因机而论。大道至简,易知易行,运用之妙,存乎一心,只要做到心地清静,就能达到养生效果,学人切不可执着于某方某法。佛经所言“一切有为法,如梦幻泡影”和“法尚应舍,何况非法”,即是此意。养生关键在于妙悟养生的道理和生命生老病死现象的根本原委和影响因素,这必须通过清静的方法来达到,有如水之浊者,必静之方能水清石现,湛然印物,了了分明。所以,离了清静,不能养生。第八,先天一气,虚无中来。养生应该求夺天地之精气,《黄帝内经》所谓真人“呼吸精气”,“抟精神,服天气”,指的就是先天一气。所以,不可执着于肉体,“先天一气,自虚无中来” 。《黄帝内经》“恬淡虚无,真气从之。精神内守,病安从来”十六个字就是求夺天地精气的方法,也是养生的全部内涵与方法,其他一切套路花样都可以免却。现代人养生最缺乏的就是清静,因为不能清静,所以欲望和贪婪占据了人的心灵,根本谈不上“恬淡虚无”,又哪里能够“真气从之,精神内守”而不病呢?所以,清静才是治疗人心浮躁的灵丹妙药,这就要如老子所说,效法天地,“见素抱朴,少私寡欲”。如《周易参同契》所说那样,“以无制有,器用者空”,使人的心神不向外驰,而久居身中,进而做到“守一处和”,形不过劳而精不妄泻,人的精气神三者才能抟而为一,精神内守。《黄帝内经·素问·生气通天论》也说,“苍天之气,清净则志意治,顺之则阳气固,虽有贼邪弗能害也,此因时之序。故圣人抟精神,服天气,而通神明”。世人只知道赖饮食以养生,而不知道服食“精气”以养生,不知道打开人体生命本有的宝库,如果将普通杂乱无章的呼吸,调整为有规律的利于人体长寿长生的呼吸,以至返归于婴儿在母胎中不用口鼻呼吸的“胎息”,呼吸天地之精气,就一定可以达到养生延年的目的。

 

 

(簡単な訳)

陳撄寧と胡海牙師弟の養生実践活動は、道家の虚静無為の思想に根ざし、『黄帝内経』の「恬淡虚無、 真気が従い、精神が内守されれば、病いどうして来ようか」という養生理論を柔軟に応用したものである。彼らは、養生が「先天の無為の道に合致しない」、すなわち清静無為を旨としない養生活動は、必ずしも身体に有益ではないと考えていた。したがって道理を学ぶことが養生の第一の要義であり、養生方法や技術の習得はむしろ重要ではない。養生の道理を理解しなければ、誤った道に迷い込んだり騙されたりする恐れがあり、適切な方法を選べずにかえって健康を損なう可能性がある。次に、読んで道理を明らかにすることと方法の鍛錬は偏ってはいけない。性と命を共に修める養生の大道は、「真実の伝授された方法、事実に基づく経験、精透した道理、博広き学問」がなければ、必ずや盲人が盲馬に乗り、夜半に深い池に臨むようなものとなる。ゆえに、書物は読まねばならないが、全てを鵜呑みにしてはならない。方法は学ばねばならないが、盲従してはならない。必ず事実に基づいて、その原理を推求し、真偽を見極め、自分に合った養生法を見出さねばならない。第三に、『黄帝内経』に「陰は静かにし陽は躁し、陽は生じ陰は長じ、陽は殺し陰は蔵す」とある。陰陽は動静の根源であり、動と静を組み合わせ、動と静を併せ持つことで初めて性命の理に合致し、養生の道となる。人は万物の霊長ではあるが、やはり動物の一種である。動物の本性は「動」であり、「動」こそが生命の本質的特徴である。「流水は腐らず、戸の軸は蛻ず」と、動いてこそ生命の活力が顕れる。しかし「動」とは妄動ではなく、法を得て動くことであり、常に適度な労作を保ち、過度に追い込まないことである。さらに、静をもって動を制し、動の中に静を求め、その動は静の如く、その静は動の如く、天地の陰陽の造化の理を妙に悟り、先天の虚静寂漠なる無為の境地に達する。「静にして陰と同徳し、動にして陽と同波す」。これによって初めて良好な養生効果が得られるのである。第四に、養生は性と命の両方を修めることである。「性と命は本来分かつことができず、その『霊機』を言うなら『性』と称し、その『生機』を言うなら『命』と称する。一体二用である」。性功は心理面に属し、命功は生理面に属する。心理は確かに生理に影響を与え、生理もまた心理を変えることができる。ゆえに性命の二者は、軽重急緩を分けられず、どちらが先か後かと言うこともできない。第五に、養生には三宝(精・気・神)を共に養うことが必要であり、精気神三宝こそが人体にとって最良の薬である。『黄帝内経』が説く「精神内守」や「呼吸精気、独立守神」は、いずれも養生において精気神三者を兼顧することを求めている。神を養うには清静無為が貴く、気を養うには虚無恬淡が肝要である。神気が合一すれば、気は自ずから精を生じ、身体は自然に健康となる。聴膚法(皮膚で聴く法)はまさに精気神の鍛錬であり、身動かさずして精を練り気化し、心動かさずして気を練り神化し、意動かさずして神を練り虚に還す。太極拳や八段錦もまた精気神の鍛錬である。第六に、行住坐臥(歩く・立つ・座る・寝る)のあらゆる瞬間に鍛錬を為すこと。現代社会の生活リズムは加速し、職業分業は複雑多様で、人々の生活リズムはそれぞれ異なる。現実の仕事や生活のニーズを満たしつつ、養生の目的も達成するにはどうすればよいか。したがって、養生は常に心を向け、行住坐臥のあらゆる場面で実践可能であり、肝心なのは内面の淡泊さと清静虚無である。第七に、定まった方法はなく、妙は心の悟りにある。養生の道は適宜さが重要であり、時・地・人・機に応じて論じるべきである。大道は至って簡素で、理解しやすく実践しやすい。その妙は心中に存し、心が清らかで静かであれば養生効果は得られる。学者は特定の方法に固執してはならない。仏典に「一切の有為法は、夢幻泡影の如し」と「法尚応捨、まして非法」とあるのは、まさにこの意である。養生の鍵は、養生の道理と生命の生老病死現象の根本原因・影響要因を妙に悟ることにある。これは清静の方法によってのみ達成され、濁った水は静めることで初めて澄み、石が姿を現し、湛然として万物を映し、明瞭に現れる。ゆえに清静を離れて養生は成り立たない。第八、先天の一気は虚無より来る。養生は天地の精気を奪い求めるべきであり、『黄帝内経』が真人に「精気を呼吸し」「精神を捻り、天気を服す」と説くのは、まさにこの先天の一気を指す。ゆえに肉体への執着は禁物であり、「先天の一気は虚無より来る」。
『黄帝内経』の「恬淡虚无,真气从之。精神内守,病安从来」という十六文字は、天地の精気を求める方法であり、養生の全ての内包と方法でもある。他のあらゆる形式や技巧は不要である。現代人の養生で最も欠けているのは清静である。清静でいられないため、欲望と貪欲が人の心を占め、「恬淡虚無」など到底言えず、ましてや「真気が従い、精神が内に守られる」ことで病を免れることなどできるはずがない。ゆえに清静こそが、人の心の浮ついた状態を治す霊丹妙薬なのである。これは老子が言うように、天地を模範とし、「素朴を好み、私欲を少なくし、欲望を少なくする」ことである。『周易参同契』が説くように、「無をもって有を制し、器用する者は空なり」と。人の心神を外に走らせず、長く身中に留め、「一処に和を保つ」に至れば、形体は過労せず精気は妄に漏らさず、人の精・気・神三者は一つに攪合され、精神は内守されるのである。『黄帝内経・素問・生气通天論』も言う。「蒼天の気は清浄ならば志意は治まり、これに順うならば陽気は固まり、たとえ賊邪があっても害することはできない。これは時の序に因る。故に聖人は精神を捻じ固め、天気を服し、神明に通じるのである」。世人は飲食に頼って養生することしか知らず、「精気」を服食して養生すること、人体に本来備わる生命の宝庫を開くことを知らない。もし普通で無秩序な呼吸を整え、規則正しく人体の長寿・長生に有益な呼吸へと調整し、さらに胎児が母胎で口鼻を使わず呼吸する「胎息」に回帰し、天地の精気を呼吸すれば、必ず養生延年の目的を達成できるであろう。

 

 

陳攖寧老師については

以下に少し書かれています。